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東京地方裁判所 平成11年(ワ)12151号 判決 2000年12月25日

原告

乙山花子

右訴訟代理人弁護士

本杉明義

被告

甲野太郎

右訴訟代理人弁護士

赤松俊武

主文

一  被告は、原告に対し、金六〇万円及びこれに対する平成一一年一月一三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその他の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを一〇分し、その一を被告の負担とし、その他を原告の負担とする。

四  この判決の第一項は、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  原告の請求

被告は、原告に対し、金一一七一万円及びこれに対する平成一一年一月一三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、原告が、被告の経営する歯科医院において顎関節症による首の痛み等を主訴として診療を受けたところ、治療内容等につき十分な説明が行われないまま、補綴治療を目的として自然歯を大幅に削合するなど不可逆的かつ侵襲性の高い治療を施されてしまったことから、精神的損害を受けるとともに、他の医療機関での受診を余儀なくされたとして、被告に対し、診療契約上の説明義務違反又は不法行為に基づく損害賠償として、他の医療機関における当面の治療費、慰謝料等の支払を求めた事案である。

一  争いのない事実等(証拠を摘示しない事実は、争いのない事実である。)

1  原告は、昭和○○年○月○○日生まれの成年女子であり、平成七年三月に××大学国際政治経済学部を卒業し、同年四月に□□火災保険株式会社に入社し、同社を平成一一年四月に退職するまで同社本店に勤務していた。(甲二三、原告)

2  被告は、東京都千代田区丸の内<番地略>地下一階において歯科医院である「甲野デンタルクリニック」を経営する歯科医師である(以下被告が同所において経営する歯科医院を「被告歯科医院」という。)。

3  原告は、平成元年七月(当時高校在学中)に開閉口時の疼痛と雑音を主訴として防衛医科大学校病院で受診したが、この時点では特に治療を受けることなく症状は軽快した。その後、平成六年六月一〇日に右症状が再発したため再度同病院で受診したところ、顎関節症との診断を受け、痛み止めと筋肉弛緩剤等の投与及びスプリント療法(プラスチック製のいわゆるマウスピースのようなもの(スプリント)を装着し、噛み合わせの状態や歯の接触関係を変更する治療法。この時点では、就寝時のみ全部歯スプリントを装着していた。)が実施された。その後平成八年までは、スプリントの調整が必要になったとき及び痛みの強いときに年数回通院する程度で、疼痛も数日間で収まっていた。平成九年末又は平成一〇年初めころ、通院の便から東京都練馬区のいくた歯科医院に通院するようになり、ここでもスプリントの装着等の治療を受けたが、スプリントがすぐに摩耗し、症状の改善も得られなかったことから、平成一〇年二月ころまでに五、六回通院したのみで、同年七月、知人の紹介で虫歯の治療を受けたことのある丸ビル五階歯科医院で受診した。同歯科医院では、同年八月中旬に、予め説明を受けた上で咬合調整のため右上第一臼歯一本をごくわずかに削合する治療を受けたところ、頸部に違和感を覚えたため通院を中止した。このころ、勤務先の同僚である岡田某から、原告と同じ顎関節症で被告歯科医院を受診したところ、数回の通院で快復した旨の話を聞いたことから、原告は岡田の紹介で被告歯科医院を受診することとした。(甲二三、原告、被告)

4  原告は、平成一〇年八月二五日に被告歯科医院を訪れて診察を受け、被告に対し、上下歯の噛み合わせが悪いため夜も眠れないほど顎・首・頭が痛く、肩こりもひどいと訴え、二、三の歯科医院でスプリントを装着されたり歯を削る治療を受けたが良くならなかった、歯を削られた際頸部に痛みが走った、歯を削られるのは怖いので削りたくないなどと述べた。(甲二三、原告、被告)

同日、原告と被告との間でこれらの症状の治療を目的とする診療契約(以下「本件診療契約」という。)が成立した。

5  被告は、右初診日に、問診のほか、顎X線撮影、顎模型採取等の所要の検査を行った結果、左右臼歯部歯列不正を伴う咬合不全、咀嚼筋の強度の緊張、首・肩周辺の神経筋機構の異常等の所見を認めたため、翌二六日、顎関節各部の位置関係の整復及び顎関節周辺の筋の緊張の緩和を目的として、原告の上顎左右四番の歯牙に各一本分の「ミニスプリント」を装着した。(甲七、一二、二三、乙二二、原告、被告)。

その後、原告は、平成一〇年九月二七日から同年一一月末までの期間(原告は、この期間アトピー性皮膚炎治療のため盛岡市内の皮膚科病院で入院治療を受けていた。)を除き、平成一〇年八月二五日(初診)から同年一二月末までの間に、概ね三、四日若しくは一週間前後の間隔で被告歯科医院で受診し、経過観察をしながらミニスプリントを修理・調整し、またその都度咬合紙を使用して噛み合わせの調整を行う等の治療を受けた。原告は、当初違和感等を訴えたが、ミニスプリントの装着により頭痛、肩こり等の症状は相当程度軽快した。しかし、依然として、これを外すと右諸症状が再現するという状態であった。(甲一、二三、乙七の3、二二、原告、被告)

6  平成一一年一月六日に続き、原告は、同年一月一二日に被告歯科医院で受診した。被告は、同日、少なくとも臼歯八本(上顎両側四番から七番の小臼歯及び大臼歯)について補綴治療(自然歯を削合の上金属等の冠で被覆する治療方法)を行う前提で、被覆のスペースを確保するため、上顎臼歯八本についてエナメル質部分0.3から0.5ミリメートル程度を削合し、下顎臼歯八本について咬合調整を目的として極く浅く削合した。(甲一、二三、乙七の3、二二、原告、被告)

7  同年一月二一日、原告は被告歯科医院に再来院したので、被告は、原告の五本の歯牙を削合したほか、原告の推奨する上顎全歯についての補綴治療を行う場合、冠の素材として保険対象のものと対象外のものとがあり、対象外のものを勧めるなどと話した。(甲一、二三、乙七の3、二二、原告、被告)

8  原告は、補綴治療に使用する冠の素材の選択に関し、他で金属アレルギー検査を受け、右検査結果を持参の上、同年二月二日、被告歯科医院に再来院した。被告歯科医院において、被告と原告との間で、冠の素材に関するやりとりが行われた。(甲一、八、二三、乙七の3、二二、原告、被告)

9  同年二月九日、原告は被告歯科医院に再来院したが、補綴治療の方針について、これ以上歯を削りたくないし、冠も被せたくないと述べるなどして、被告との間で押し問答となった。押し問答の末、結局物別れとなり、被告歯科医院における原告の治療は同日をもって中断した。(甲一、二三、乙一、七の3、二二、原告、被告)

10  原告は、その後港区のヤブキ・デンタル・オフィスで受診して、同歯科医院の紹介により、平成一一年四月二日から日本歯科大学歯学部付属病院第一歯科補綴科において、両側顎関節症(咀嚼筋障害)の診断を受けて保存療法(レーザー療法、電気刺激療法等)による治療を受けている。今後の治療見通しについては、平成一一年九月一七日時点において、準神経症を呈するため、比較的長期間の保存療法を要し、症状緩和後は、咬合問題の是正が必要となる可能性が大きいとの診断がなされている。(甲九、原告)

二  争点

被告が補綴治療を目的として平成一一年一月一二日及び同月二一日に原告の歯を削合したことについて、原告に対する説明義務違反が認められるか。

三  原告の主張

1  被告の責任及び損害

(一) 原告のような顎関節症の治療方法としては可逆的かつ侵襲性の低い保存療法を優先すべきであり、また、不可逆的かつ侵襲性の高い咬合調整を実施する場合には、事前に患者に治療内容を十分に説明して患者の同意を得るべきである。

患者がいかなる内容の治療を受けるかについての最終的な決定権は患者にあり、この決定権を担保するため、医師は患者に診断内容、治療内容等について一定の説明義務を負い、患者の同意を得た上で治療を実施しなければならない。そして特に歯科治療の場合には緊急を要するものが比較的少ないことから、時間をかけた納得のいく「十分な説明」が求められ、また復元・再生の困難な侵襲を伴う治療が多いため誤解を残さないよう「懇切丁寧な説明」が求められる。

(二) しかるに被告は事前に説明を行うことなく、平成一一年一月一二日及び二一日に多数の自然歯に対して大幅な削合を行った上で補綴治療をする(具体的には義歯を装着する)という極めて不可逆的かつ侵襲性の高い治療を実施し、その実施後に具体的な説明を行うといった点において明らかな説明義務違反の行為をしたものであり、これにより、原告は次のとおりの損害を被った。

(三) 損害

(1) 治療費 一〇〇万円

別の歯科医院において当面要する治療費等

(2) 通院交通費 一〇万円

別の歯科医院で治療を受ける際に要する交通費その他の諸費用

(3) 後遺障害慰謝料 四六一万円

後遺障害等級表第一〇級三号に相当する額

(4) 精神的苦痛に対する慰謝料

五〇〇万円

(5) 弁護士費用 一〇〇万円

(6) 合計 一一七一万円

2  被告に前記説明義務違反が認められることは次の事実から明らかである。

(一) 原告は、被告に対し、初診時において、歯を削らない治療方法を希望する旨明確に表明した。

(二) しかるに、被告は、治療方針・治療内容については、「そのうちにしますから、私に任せておきなさい。大丈夫。」等と繰り返すのみで、何ら明確な説明をしないまま、同年一月一二日には事前に何の説明もせず原告の承諾も得ずに、突然原告の自然歯を大幅に削合した。原告は、まさか歯を削っているとは思わず、歯の上に何かを盛っているのかと思っていたが、治療後外に出て奥歯を触ってみたところ、真っ平らに削られていることが分かって愕然とした。しかし、原告はここで抗議を行って被告の機嫌を損ねるのを恐れて、その日はそのまま帰宅した。

(三) 原告はその日以降不安の日々を過ごしたが、ミニスプリントの高さを調整してもらう必要があったので、同年一月二一日に被告歯科医院を受診し、一月一二日に歯を削合したことについて強く説明を求めたところ、被告は、「いやあ、そろそろ説明しようと思っていたんだよ。」と述べて、この時点において初めてホワイトボードを使って治療内容の説明を行った。

すなわち、被告は、「君の上下歯の組合せの位置は悪いから、噛み合わせの位置を高くする必要があるが、自然歯を利用して噛み合わせの位置を高くすると見た目も悪い。そこでまず上の臼歯を削って上下歯の噛み合わせの位置を調整し、かつ、上の歯すべてを小さく削ってセラミック製の義歯を被せて噛み合わせの位置を高くする。上の歯を全部セラミックで被せると前歯は一本七万円、奥歯は八万円で、合わせて一〇二万円になる。」との説明を行った。原告は、初めて聞いた被告の治療方法と高額な費用に驚き、「ちょっと考えさせてほしい。」と述べて帰宅した。

(四) 同年二月九日に原告は被告歯科医院を訪れ、被告にこれ以上歯を削らずに治療してほしい旨を伝えたが、被告は「君の歯は被せるしか治療法がない。矯正は君の場合は八年かかる。田園調布では同じセラミックは一本二〇万円かかる。」等と述べて、歯を削らずに治療を行うことを拒否した。このため、原告と被告とは口論となり、被告に対する不信感から、原告は別の歯科医院で別途治療を受けざるを得なくなり、被告歯科医院での受診を中止した。また、原告は、被告の前記治療によって顎、首、額の引きつり等を起こし、ほぼ完治していた皮膚疾患の再発を招いた。

3  被告の主張(後記四の2)に対する反論

(一) 被告の主張2(一)について

否認する。

(二) 同2に(二)について

被告が原告の左右上四番の歯牙にミニスプリントを装着する治療を行った事実は認めるが、その他の事実は否認する。原告は、被告から「噛み合わせが悪いので噛む位置を高くしなければならない。」とだけ言われてミニスプリントを装着され、その後被告はミニスプリントの調整を行っていただけである。被告が原告の歯を初めて削合したのは平成一一年一月一二日である。いまだ原告の症状の原因がはっきりせず、またスプリント療法を実施している段階で不可逆的かつ侵襲性の高い咬合調整を実施することはあり得ない。

(三) 同2(三)について

被告主張事実は否認する。年末に原告は被告から「いよいよフィナーレに近づいてきた。」と言われた事実はあるが、その言葉の意味の説明はなかった。

(四) 同2(四)について

被告主張事実は否認する。被告は、原告が装着していたミニスプリントを削り(それまで被告はミニスプリントを高くしていたが、この日に初めて低くなるようにミニスプリントを削った。)、「低くしてみたのでこの位置で様子を見ましょう。」と述べたに過ぎず、被告は具体的な治療内容の説明をしていない。原告が被告から同項記載の説明を受けたのは平成一一年一月二一日が初めてである。

(五) 同2(五)について

被告主張事実は否認する。原告が補綴治療を承諾したこと及びこの日に治療内容の説明を受けたことは全くない。この日に原告は、何ら具体的な説明を受けずに多数の歯牙を削合されたのであり、同日治療を終え被告歯科医院を出て自分の奥歯を触った時に初めて削合の事実を知ったのである。

(六) 同2(六)について

被告主張事実はおおむね認める。ただし、そのままの状態では以前にも増して痛みがひどかったため、被告の実施するままやむなく更なる削合に応じたのであり、また当日被告から補綴が必要と説明を受けたので取りあえずアレルギー体質のため歯科用金属の検査を受けると述べたものである。被告は、他の治療方法を選択する余地を奪われた原告の窮余に乗じて補綴治療の実施を試みたのである。

(七) 同2(七)について

原告が金属アレルギー検査結果を被告歯科医院に持参したこと、被告が原告に治療費の説明をしたことは認めるが、その他は否認する。

原告は同日金属アレルギーの検査結果を持参して被告歯科医院を訪れた。そして「亜鉛とマンガンにちょっと反応があったので使わないでほしいのですが。」と述べたところ、被告は右の紙を見て「やはり一八金かアートセラミックの方がいいですね。」等と述べて費用の説明を行った。原告は、被告の話を聞いて「ちょっと考えさせてください。」と述べてその日は帰った。原告は、一月二一日に今後の治療内容の説明を受けたが、削ってしまった歯は元どおりにならない上、被告からそれ以外の方法では治らないと言われ、やむなく補綴治療を実施する場合に備えて金属アレルギーの検査を行ったのである。

4  診療録(乙一)の信憑性

次のような理由から、乙一の診療録には信憑性がない。

(一) 原告は平成一一年三月から四月にかけて被告の所属する歯科医師会会長の並木歯科医に四回面談した。その際並木歯科医は、「被告作成のカルテのコピーがある。そのカルテは作られたカルテである。専門家が見れば捏造が分かる。」などと述べていた。

原告訴訟代理人は、右発言の真偽を確認するため並木歯科医に面談し、乙一の診療録(以下「本件診療録」という。)を示して事実確認を行った。その際、並木歯科医は、本件診療録とは別の被告作成の診療録が存在し、被告から別の診療録を示されて相談を受けたが、被告に「その内容では勝負にならない。」等とアドバイスし、その後被告から本件診療録のファックス送信を受けた、と発言し、更に本件診療録は被告が事後一気に作成したものであると述べていた。

その後並木歯科医は、被告と面談した後から「以前被告から相談を受けた際示された書類がカルテであったのか記憶が明確ではない。」などと前言を翻すようになった。しかし、同歯科医は、本件診療録が事後に一気に作成されたものという点については前言を翻さなかった。

(二) 本件診療録には、原告と被告との会話内容まで詳細に記載されている。しかし、忙しい歯科医が患者との具体的な会話内容まで診療録に記載することはおよそ考え難い。また、その筆跡は最初から最後まで同じである。

四  被告の主張

1  被告の診断内容(責任及び損害について)

原告の顎関節症は、従前の診療経過からして、保存療法だけでは完治しないことが明らかな難治性の顎関節症であり、症状が咀嚼筋を中心に頭頸部・肩部まで広範囲に広がっている極めて特殊な症例であった。そこで、その治療のためには、早期に諸症状の緩和処置を行うことが必要であり、スプリント療法・カウンセリングなどを実施するとともに、早期に咬合調整を行って、治療上妨げになる干渉歯の削合調整を行うことが最も有効な治療方法であると判断された。被告は、右判断に基づき、初期段階の治療において咬合調整のため歯牙を削合する処置を繰り返し実施し、その後の最終段階において原告に治療法を説明しその承諾を得て補綴治療を採用し、前後五日間にわたり二二本の歯牙を削合し咬合調整を行った。

これらの治療方針・内容については、被告は後記2のとおり原告に十分に説明を行っており、この点について説明義務違反はない。

2  被告の原告に対する説明内容

(一) 平成一〇年八月二五日、二六日(初診時)

被告は原告に対し、原告が左右の顎関節症であることを説明し、疼痛などの症状は咬合調整だけの治療では軽快しないことが予想されること、歯牙の咬合を根本から治療する必要があることを説明し、治療方法にはいわゆる一般矯正の方法と補綴矯正の方法とがあるが、原告の場合には、一般矯正には六、七年の期間が必要であり、費用も最低一〇〇万円はかかると予想されること、一般矯正を行っても別途咬合の治療が必要となることが予想され、その場合には八年程度の期間が必要になるのに対し、補綴矯正の場合には、ずっと短期間で、ほとんど同額の費用で行うことが可能であること、ミニスプリントを装着して原告の症状と咬合状態などの経過を観察し、歯牙の干渉部位を削合するなどの治療に進むことが予想されるが、現時点では不明である旨などを説明した。

(二) 八月二八日〜九月二一日

被告は、ミニスプリントを外しても異常がないようにするため、上下臼歯部の咬合調整を中心として、ほぼ全歯にわたり早期接触・咬頭干渉の部位を削合するとともに、時々ミニスプリントを外して様子を見るよう指示した。また今後の方針について、ミニスプリントを外すと調子が悪くなる状態が継続するのであれば咬合調整のみでは治療することはできず、補綴矯正等により咬み合わせの高さをあげる処置が必要となることや費用概算、現時点では最終的な治療法を確定できないことを説明した。

(三) 一二月二二日〜二八日

ミニスプリントを外すと顎等に疼痛が発現して夜も眠れないということであったため、被告は、原告の顎関節症の治療のためには全顎に及ぶ補綴療法が必要になる可能性があると判断し、原告にその旨の説明をし、年明けになって最終的な治療方法を具体的に決めたいと述べた。

(四) 平成一一年一月六日

被告は、以上の経過を踏まえ、最終的な治療方法は、全歯に補綴を行って咬合高径をミニスプリントの高さまで上げる補綴療法が最善であると判断した。そこで、被告は原告に対し右の治療法を説明し、同時に前歯部の離開を治療する必要があると説明した。また、臼歯のみに補綴を行う場合の方法もあり得るから、この方法で効果がないときに、その時点で前歯部の離開に対する治療をすることにすればよい旨説明した。

また、被告は、健康保険の適用されない方法(セラミックで治療)で行うときには見栄えはよいが治療費は高額となり、前歯部の離開の治療費は約七〇万円、臼歯部の治療費を含めると約一四〇万円になる旨を説明し、原告に対しどの治療法を希望するか決めるように要請した。

(五) 一月一二日

原告は、補綴療法による治療を承諾するとともに、臼歯のみに補綴を行う治療法を採用し、前歯部の離開をできるだけ小さくするために臼歯部の早期接触・咬頭干渉を削合することを希望した。

そこで被告は、ミニスプリントを低く削りながら、上顎臼歯部の早期接触・咬頭干渉の部位を削り、前歯部の離開度を確認するという方法を繰り返した。原告が臼歯部をどの程度削合するのかと質問したので、被告は、歯の模型図を示しながら、無麻酔の処置であり歯牙のエナメル質の範囲内しか削らないことを説明した。

(六) 一月二一日

原告は、前回の治療で削合した臼歯部は「ほんの少し滲みるだけで日常生活には問題はない。」と言っていた。被告は、前回と同様に臼歯部を中心として削合を行った。原告が帰り際にどのような補綴物が原告に適しているのか質問したので、被告は、次回の来院時に健康保険の適用されるもの適用されないものを含め補綴物の種類や使用する金属について説明する旨述べた。

(七) 二月二日

原告は、当日金属アレルギー検査結果を記載したリストを持参しており、補綴物に使用する金属にはこのリスト記載のものを使用しないでほしいと述べた。被告は、このリストに基づき一八金以上の金属による補綴が望ましいと判断した。また従前の補綴治療における充填物の中にアレルギー反応を示す金属が含まれている可能性があったので、前歯(差し歯)の治療をやり直すことを含めて上顎全歯の補綴治療が望ましいと判断した。

被告は、原告に右のとおり説明し、具体的な補綴方法・使用する金属の種類・噛み合わせの改善方法・顎関節に対する影響などをホワイトボードを使って詳しく説明した。治療費については、一八金裏装のハイブリッドセラミックのアートグラスで治療した場合には小臼歯一本七万円、大臼歯一本八万円で合計六〇万円であることを説明し、前歯の治療をやり直せば四二万円であり、合計一〇二万円であることを説明した。

被告は、次回の来院時に臼歯だけの治療とするか、前歯を含めるかを決めるよう要請した。

3  原告の主張に対する反論

(一) 被告は、平成一〇年八月二五日に原告から歯を削らない治療をして欲しい旨の明確な意思表示を受けたことはない。むしろ、原告は、同人の同僚である岡田某が顎関節症の症状の治療のため被告歯科医院を受診し、数本の歯を削るだけの治療で良くなったと聞いて、岡田から紹介されて受診したと述べていたのであり、原告は同様の治療を希望していたのである。

(二) 本件診療録について

(1) 被告は、平成一一年三月一七日に並木歯科医と面談した際に、東京都歯科医師会の医事紛争処理の準備のため並木歯科医において診療録を事前にチェックするので送付するよう言われ、並木歯科医に対しすぐにファックスで送付した。しかし、並木歯科医から、「こんなカルテでは読めない。」と言われ、理解しやすいようにワープロで経過を説明する書面を作成したのである。

(2) 本件診療録に原告との会話や被告の受けた印象が詳細に記載されているのは、被告が原告に対しカウンセリングをしてきたためである。本件診療録の記載は、原告の主張(甲二)とほぼ合致している。これほどまでに詳細な内容を後日になって一気に書き上げることは不可能である。

第三  当裁判所の判断

一  事実経過

1  証拠(甲一から三、五から九、一一、一二、一五、二三、二四、乙一から六、七の3、一六、一八から二二、二四、原告、被告)に前記「争いのない事実等」を併せると、次の事実を認めることができる。

なお、本件診療録(乙一)について、原告は、原告が被告の責任追及を開始した後にまとめて記載されたものであるとしてその信憑性を論難するところ、その根拠は、被告の所属する丸の内歯科医師会の並木会長の右診療録に関する発言内容と、記載内容が原告の記憶ないし認識に反し、また不自然であるという点にある。しかし、乙一五の1から10に照らし、本件診療録に外見的、内容的にその記載方法や時期について特段の疑義を生じさせるような記載は認められない。また、並木会長は、後になって乙一とは異なる診療録を見た旨の発言を翻すようになったというのであるから、同人の発言は本件診療録の作成経緯について疑義を生じさせるに足りる程のものと認めることはできない。したがって、本件診療録は、各診療時における被告の認識をその都度記載したものと認めるのが相当である。

(一) 顎関節症とその治療

顎関節症とは、顎関節や咀嚼に関する器官に明らかな病変はないが、顎関節部の痛み、運動制限、顎関節雑音等の症状を呈する疾患をいう。その原因としては、必ずしも明らかでない部分はあるものの、咬合異常に起因する神経筋機構の異常あるいは顎関節構造・位置の変化(異常)、精神的ストレスや咬合異常による咀嚼筋活動の異常亢進、ストレスや心理的要因、全身的疾患、異常口腔習癖などが挙げられ、発症にはこれらの各因子が相互に密接に関わっているとされる。

顎関節構造や位置の異常、精神的ストレスによる咀嚼筋活動の異常亢進、ストレスや心理的要因、その他の全身的疾患や異常口腔習癖などを病因とする場合は、保存可逆的な、冷・温熱療法、マッサージ、超音波療法やソフトレーザー療法等の理学療法や薬物療法で完治し得るが、咬合に起因する神経筋機構の障害や咀嚼筋活動の異常亢進と診断される病態を有する顎関節症については、歯牙の削合を伴う咬合調整や補綴治療による正常な咬合の再構築等によって咬合干渉を除去することが最終的治療法とされることが多い。

咬み合わせには、関節に支配される噛み合わせと歯に支配される噛み合わせとがあり、本来両者は一致すべきものであるが、早期接触や咬頭干渉(顎の上下運動時に一番最初に接触する歯の干渉点)等の咬合干渉によって歯に支配される噛み合わせが顎関節によって支配される噛み合わせからずれると、顎関節に無理な力が加わり、関節や関連する筋に疼痛等の症状を引き起こす場合がある(ただし、不調和があっても直ちに症状が現れるわけではない。)。顎関節症が咬合異常に起因している場合には、治療は咬合の異常を解消ないし減少させることを目指すことになる。

理学療法の一つに分類されるスプリント療法は、スプリントの装着により歯に支配される噛み合わせの影響を遮断することにより、顎関節を正しい位置関係に戻そうとするものである。したがって、発症に咬合異常が関与している場合には、疼痛等の諸症状を除去し得る治療法になると同時に、これを一定期間装着することによって、当該患者の発症が咬合異常に起因するものか否かを診査することができる。

顎関節症の治療のあり方としては、一般的には、まず理学療法や薬物療法等の可逆的で侵襲性の少ない治療法から始め、これにより効果が得られない場合に、症状とその原因を慎重に検討しながら、咬合調整や補綴治療等の不可逆的で侵襲性の大きい治療法に移行するのが妥当と考えられている。そこで、一般に、臨床的には、スプリントの装着とその他の保存可逆的な治療法の併用により、顎関節や関連する神経機構・咀嚼筋等の緊張をほぐし、疼痛等の諸症状の緩和を図りつつ、咬合問題の発症への関与の程度や正しい咬合位を診査するとともに、経過を観察することになる。これにより症状が消失し、スプリントを外しても症状が再現しない場合には、完治したものとしてそれ以上の治療を要しない。しかし、スプリントを外すと症状が再現する場合には、更に次の治療方法を検討することになるが、本件において被告が実施した補綴療法は、最終的な治療法と評し得る治療法で、不可逆的、侵襲的な治療の中でも、不可逆性、侵襲性の強いものと評価される。

(二) 咬合調整

特定の歯牙が、中心咬合位、中心位、及び偏心運動時に異常な接触を有し、顎口腔系に外傷として働いたり、障害などの影響を及ぼす可能性がある場合に、当該歯牙の咬合面(早期接触あるいは咬頭干渉)をミクロン単位で削合して、上下歯列を歯の最大面積でかつ顎関節に対して正しい顎の位置関係で噛み合わせるように誘導する処置を言い、通常、患者に赤い咬合紙(バイトシート)を咬ませ、早期接触あるいは咬頭干渉の部位を確認しながら行う。歯科学的には、補綴修復物の試適時や合着後、広範囲の補綴治療の前処置として、また矯正治療中で咬合が不安定な場合等に適応とされている。この治療法は、不可逆的かつ侵襲的治療の一つであるが、補綴治療よりも侵襲性が低く、顎関節症における咬合の再構築のための処置として実施される割合が高い治療法である。

もっとも、近年では、顎関節症は関節や筋に関わる多因子の整形外科的疾患であり、咬合と顎関節症との因果関係は余り強くないとの考え方が提唱されるに至っており、このような観点からは、咬合調整も、不可逆的かつ侵襲的な治療法としてできるだけ避けるべきものとされる。

(三) 原告についての被告の診断・治療の経緯及びこれに基づく説明内容

(1) 初診時(平成一〇年八月二五日及び二六日)

被告は、原告について、左右臼歯部歯列不正を伴う咬合異常、咀嚼筋の強度の緊張、神経・筋機構の異常を伴う左右顎関節症と診断した。更に、原告が既に平成六年からスプリントの装着や薬物療法による治療を受けていたことなどから、原告の顎関節症は難治性のものであり、また、顎、肩や首等の疼痛のため夜も眠れない等、心身に与える影響が強いことから、早期にこのような症状を改善することが必要であると判断した。そこで被告は、初期段階の治療としてはミニスプリントを装着し、これにより是正される顎関節のずれに合わせて必要となる咬合調整等をその都度行いつつ、経過を観察することにした。最終段階の治療等は、右経過観察を経なければ確定できないものの、咬合調整のみでは症状は軽快せず、咬合の再構築が必要となるのではないかと予想していた。

そこで、被告は原告に対し、原告が左右の顎関節症である旨、及び歯牙の咬合を根本から治療する必要がある旨を説明し、八月二六日、被告は原告にミニスプリントを装着し、経過を観察する旨説明した。

(2) 同年八月三一日から一二月二八日まで

時々ミニスプリントを外させるなどして経過を観察したところ、ミニスプリント装着後二、三週間以降は、装着時は疼痛等の諸症状がほぼ緩解する状態となることが確認されたので、被告は、原告の顎関節症が咬合異常に起因しているものと判断した。そこで、被告は、ミニスプリントを外した状態で異常が生じないようにすることを目指し、治療の都度ミクロン単位で歯の削合を実施し、上下臼歯部を中心にほぼ全歯について咬合調整を実施したが、結局ミニスプリントをはずすと症状が再現する状態が継続していた。特に、一二月二二日以降、ミニスプリント装着から四か月を経ても、これを外すと顎等に疼痛が発現して夜も眠れないとの訴えがあったため、被告は、右治療のためには全顎に及ぶ補綴療法が必要になる可能性もあると判断するに至った。

被告は、ミニスプリントを外しても痛みなどの症状が出なくなれば補綴矯正の必要がなくなるので、調子の良いときにはミニスプリントを外して様子をみるよう原告に説明・指示し、今後の治療方針についての原告の質問を受けて、ミニスプリントを外すと調子が悪くなる状態が継続するのであれば、噛み合わせの高さを調整するため冠を被せるなどの処置を行う必要があるなどと説明していた。

また、原告からの治療費についての質問に対し、一般論であることを断って、前歯部の離開の治療を含めて歯牙全部を矯正する審美的治療をすれば、健康保険が適用できないので治療費は約一〇〇万円になること、健康保険の範囲で治療すれば、前歯部の離開の治療はできず、かつ、歯牙は全部銀歯になることなどを説明した。

(3) 平成一一年一月六日

被告は、同日も一〇歯について咬合調整を実施したが、以上の経過を踏まえ、ミニスプリントの装着と咬合調整による治療では限界があり、最終的な治療方法として、全歯に補綴を行って咬合の高さをミニスプリントの高さまで上げ、全歯牙がミニスプリントの高さで噛み合うようにして顎関節症の症状の軽快を図る補綴療法が最善であると判断した。

そこで、被告は、原告に対し歯に冠を被せる右の治療法を実施したい旨述べ、次回までに考えてくるように促した。また、この治療法を行うと現在の前歯部の離開が更に大きく広がることになり、常時口から涎が流れ出るような状態になって審美的な観点からも問題になることを説明し、同時に前歯部の離開を治療する必要があると説明した。更に費用について、被告は、健康保険の適用されない方法(セラミックによる治療)で行うときには見栄えはよいが治療費は高額となり、前歯部の離開の治療費は約七〇万円、臼歯部の治療費を含めると約一四〇万円になるなどと説明した。

(4) 同月一二日

原告は、歯に被せものをする補綴療法を承諾した。被告は、原告の希望を聞きながら、上の奥歯(上臼歯)のみに補綴を行う治療法を採用することとし、ミニスプリントを低く削りながら、上顎臼歯部八本については冠を補綴するスペースを確保するために大幅に削合し、下顎の臼歯八本については咬合調整の目的でごく薄く削合した。

(5) 同月二一日

被告が、原告に対し、前回削合した歯牙について尋ねたところ、原告の回答は、少し滲みるのみで日常生活には問題はないというものであったので、被告は、補綴スペース確保のため、更に五本の歯牙について削合を行った。

また、原告が帰り際にどのような補綴物が原告に適しているのか質問したので、被告は、次回の来院時に健康保険の適用されるもの適用されないものを含め補綴物の種類や使用する金属について説明する旨述べた。

(6) 同年二月二日

原告が他で検査を受けた金属アレルギーの検査結果を踏まえて、被告は、補綴材料としては一八金を推奨することとし、次回までに、補綴材料と補綴の範囲についての検討を促すことにした。

また従前の補綴治療における充填物の中にアレルギー反応を示す金属が含まれている可能性があったので、前歯(差し歯)の治療をやり直すことを含めて上顎全歯の補綴治療が望ましいと判断した。

被告は、原告に右のとおり説明し、具体的な補綴方法・使用する金属の種類・噛み合わせの改善方法・顎関節に対する影響などを説明した。治療費については、一八金裏装のハイブリッドセラミックのアートグラスで治療した場合には小臼歯一本七万円、大臼歯一本八万円で合計六〇万円であることを説明し、前歯の治療をやり直せば四二万円であり、合計一〇二万円であることを説明するとともに、次回の来院時に臼歯だけの治療とするか、前歯を含めるかを決めるよう要請した。

(7) 同年二月九日

当日原告は被告歯科医院に再来院し、被告との間で言い争いになった。その中で、原告が「先生は歯を高くして噛む位置を上げると言っていたので、歯を削らないで、盛ったりするような方法があるのかと思ったのですが。」などと述べたところ、被告は「削る治療を承諾を得て今まで続けてきたのに、何を言い出すんだ。」などと立腹した。原告は、「今まで削ったことはしょうがないが、張り付けるような方法がありませんか。」などと尋ねたのに対し、被告は「張り付け方法で噛み合わせを高くすることはできない。歯に詰め物を行うにも張り付けをするにも歯牙を削らなければならない。補綴治療を拒否するのであれば、私として顎関節症を治療することはできない。」などと述べ、結局口論のまま物別れとなってしまった。

2  原告は、原告が本件治療の具体的内容について説明を受けたのは、平成一一年一月二一日が最初であり、既に補綴治療のために大幅に歯牙を削合された同月一二日より後であったのであり、同月一二日以前には歯を削合されたこともなく、明示にせよ黙示にせよ、歯の削合に同意したことは一切ない、そもそも治療方針の定まらない初期の段階でこのように侵襲性の高い治療が行われるはずもない旨主張する。そして、原告は、本人尋問や甲二三の陳述書においても、これと同旨の供述をしている。

(一) しかし、平成一一年一月一二日より前においては、前記認定のように、被告はスプリント療法を実施しながら併せて咬合調整として歯牙の削合を行っていたと認めるのが相当である。そして、原告は従前の転院の経緯等からして顎関節症の症状や治療法についてある程度予備知識、経験を持ち、特に歯牙を削合しない治療方法に対し高い関心を有していた上、歯牙の削合は器械の振動や回転音から容易に感得できるものであるから、仮に削合を伴う咬合調整について具体的な説明が被告からなかったとしても、治療行為として歯牙の削合が行われていることを承知していたものと推認することができる。しかし、被告による治療がある程度効果を上げており、削合の跡も明確なものではなく、またその削合の結果痛みが発生するということもなかったことなどから、原告は、当該治療においてかねて恐れていた歯牙の削合がされているとの明確な認識を持たず、したがって特段異議を述べることもなく推移していたものと推認するのが相当である。

(二) 次に、平成一一年一月一二日における補綴治療の前提としての歯牙削合についてみるに、前記認定の前後の事実経過によれば、原告は、右削合の前に、噛み合わせの治療として被せものをして噛み合わせを高くするとの説明を被告から受けていたものと認められる。

他方、この削合後の心理や感情の動きについて原告が本人尋問や甲二三において供述するところは、それ自体においても、また前記認定の事実経過や本件訴訟に至る経緯(甲二、三、五、六、七の1から5、八の1から3等を参照。)に照らしても了解可能であり、基本的に信憑性を肯定し得るものということができる。そして、証拠(甲二、二三、原告、被告)によれば、多少神経質な点のある原告が被告に対し治療内容等について質問をした際に、被告は「私に任せておきなさい。」、「大丈夫」などという対応をとっていたことがあることが認められる。これらの諸点に、前記認定の平成一一年二月九日の事実関係を併せると、原告は、平成一一年一月六日までの間に、被告から歯に被せ物をして噛み合わせを高くするとの説明を受けてこれを了承していたものの、平成一一年一月一二日に行われた歯牙削合のような多数の歯牙に対する大幅な削合を予想してはおらず、自然歯に単純に被せ物をしあるいは張り付けるなどして噛み合わせを高くするという程度であると簡単に考えていたことから、同日の大幅な歯牙削合によって上面が平らになるに至ったことに驚愕するとともに、大きな精神的ショックを受けたものと認めることができる。

なお、削合の際の振動や器械の回転音等からして、原告が全く削合に気がつかなかったとは考えにくいが、その後の状況にも照らすと、右のような大幅な歯牙削合は全く予想していなかったと認めるのが相当である。

(三) また、右(二)の説示に証拠(甲二、二三、原告)を併せると、被告は、一月一二日に多数の歯牙削合をされたことについて夜も眠れない程の不安を抱きつつ、しかし他方では、スプリントの調節を受ける必要もあり、また他医院において治療できないことも心配で(原告は、かねて被告から、原告の疾患は被告歯科医院でしか治せないと言われていた。)、既に開始されてしまった治療行為を途中で拒絶する意思表示をすることができないまま、被告の治療方針に従って一月二一日に再び歯牙の削合を受け、その後金属アレルギーの検査を受け、二月二日にその点の相談を被告歯科医院でしたりしたものの、二月九日に至り、この日を逃すともう後戻りはできないとの思いから、意を決して被告に対し感じている疑問や考えをぶつけたところ、被告との間で言い争いになり、結局被告歯科医院における治療はその日をもって中断するに至ったものと認めるのが相当である。

3  他方、被告は、乙二二の陳述書において、被告は平成一一年一月一二日に、原告からどの程度臼歯を削合するのかを尋ねられたので、原告に模型図を示しながら、無麻酔で行う処置であって、歯牙のエナメル質の範囲内しか削らないことを具体的に説明したと供述している(乙七の3も同旨である。)。しかし、そのような具体的な説明があったとすれば、従来の経過やその後の事実経過に照らし、原告が特段の質問や異議を差し挟まないまま歯牙の削合を唯々諾々と承諾するとはにわかに考えにくいし、更に右2にみたような原告に関する事情にも照らすと、右各証拠中のこの点に関する部分はにわかに採用することができない。

また、被告は、前記第二の四のとおり、その他の治療の経過においても適宜原告に対し治療内容を具体的に説明したと主張し、乙二二の陳述書や本人尋問においてこれに沿う供述をしている。しかし、右各証拠中の前記第二の一の「争いのない事実等」及び前記1に認定した事実を超える部分については、乙一の診療録にも具体的な記載はないことや、前記2の説示やその他の関係証拠に照らすと、これを直ちに採用することはできない。

二  そこで、次に、平成一一年一月一二日に行われた補綴治療の前提としての歯牙削合に関し、被告の説明内容が原告に対して負うべき説明義務の履行として十分であったかどうかについて判断する。

1 一般に、医療上の治療行為を行うについて、それが患者の身体に対する侵襲行為に該当する場合には、原則として、医師又は歯科医師は、患者に対し右治療行為の内容及びこれに伴う危険性等について事前に説明をした上、患者の同意を得るべき義務を負っているというべきである。そして、これを患者の立場からみると、患者は、原則として、自己の受けるべき治療について一定の決定権を有しているということができる。

前示のとおり、顎関節症は、多くの因子が相互に複雑に関連する整形外科的な要素の強い疾患であり、それに応じて、治療方法も、物理医学療法(理学療法、スプリント等)、行動医学療法(カウンセリング、リラクゼーション、ペインクリニック等)、薬物療法(消炎鎮痛剤、筋弛緩剤、精神安定剤、抗うつ剤等)、非開放性関節外科療法、開放性関節手術(関節形成術、下顎頭切除等)、咬合療法(咬合調整、矯正・補綴による咬合再構成等)と多種多様なものが存在している(甲七、一二、乙一六、二〇)。そして、一般に顎関節症の場合は、患者の生命・身体の安全の確保という点からすると、緊急性の低いものが大半ということができるから、これらの点を踏まえ、歯科学や口腔外科学においては、保存可逆的な治療が常道であり、これらを種々試みても効果がない場合に、顎関節症の症状やその原因を慎重に検討しつつ、必要最小限の侵襲的不可逆的な治療方法を選択するのが妥当とされているものと認められる(甲七、一二、乙一六、二〇)。

そこで、顎関節症の治療においては、歯科医師において歯牙の削合を伴う補綴治療が妥当と判断する場合であっても、同治療は一度実施してしまえば復元することができない不可逆的で侵襲性の高いものであるから、歯科医師は、前記のようなあり得る複数の治療方法との対比の上で、実施を考えている補綴治療の必要性や緊急性、その内容、これによってもたらされる結果、補綴治療の利害得失や危険性等について、患者に対し具体的な説明を行い、もって患者においてその補綴治療の実施時期や他の治療方法との優先関係等を含め、補綴治療を受けるか否かについて適切な判断ができるように措置する義務を負うというべきである。そして、その説明は、右の目的に照らし、一般に専門的知識に乏しい患者において十分に内容を理解し選択の判断をなし得る程度に平易かつ具体的なものでなければならないというべきである。

2 これを本件についてみると、原告は、スプリント療法の実施により、これを外したときは症状が再現する状態であったものの、その装着時においては症状が緩解する状態であったから、早期に補綴療法を実施しなければならないような緊急の必要性があったということはできない。そして、原告は、歯牙を削られることに強い抵抗感と恐怖感を抱いており、被告も原告の訴えからその点を知っていたのであるから、被告においては、原告に対し実施しようと考えている補綴治療の説明をするに当たっては、治療の前提として大幅な歯牙の削合を行うこと、その後は削合を受けた歯は自然歯として使用していくことはできなくなることを具体的かつ平易に説明し、その点についての正確な理解に基づく納得と承諾を得た上で補綴治療に取りかかる診療契約上の義務があったというべきである。

しかるところ、被告のした説明は前記一の1に認定のとおりであって、被告は本件の補綴治療について一応の説明をしたと評価することができ、その説明により原告は補綴治療が歯に冠を被せて咬合面を高くするためにするものであることは理解していたものと認められる。しかし、被告の説明は、それ自体として歯牙削合の内容・程度の点に関し具体的かつ平易なものであったということはできないし、現に、原告は補綴治療の前提処置として補綴物を付着させるスペースを確保するために歯の大幅な削合が行われること、そして、補綴治療をした後は当該歯牙は自然歯として使用していくことはできず、その意味で復元不可能な状態になってしまうことを理解していなかったのであるから、被告の説明は不十分なものであったといわざるを得ない。したがって、原告は、歯牙削合を伴う補綴治療に対する正確な理解を欠いたまま同治療を承諾したものと認めるのが相当である。

よって、被告は右の点で診療契約上の説明義務に違反したものというべきである。もっとも、被告は、自らの説明によって原告は補綴治療を理解し同治療を受けることを承諾したと認識していたものであり、したがって、平成一一年二月九日に原告が補綴治療の内容を十分理解していなかったことを知った際大変驚き、かつ、立腹したものと認められる。しかし、同一の事項であっても、それに対する理解・認識の程度において専門家と一般人とでは格段の開きがあるのは当然であり、噛み合わせ面を高くするために臼歯に冠を被せる補綴治療をするといった程度の説明から、専門的知識を有しない一般患者が、補綴治療の前提措置としての歯牙削合においては咬合調整の場合に比して大幅な削合になることを当然に理解し得るものではないから、原告が被告のした説明によって補綴治療の内容を完全に理解することができなかったことに被告の責任を否定する程の帰責事由があったとはいえない。

この点、被告は原告が同僚岡田に言及しつつ当初から歯牙の削合による治療を希望して来院したかのように主張し、本人尋問等でもその旨供述するが、この点に関し被告は具体的記憶を有しておらず、また、前記認定の事実経過に照らせば原告がそのような発言をするとは考えにくいから、そのような事実を認めることはできない。

3 以上によれば、被告は、本件補綴治療を行うについての診療契約上の説明義務に違反し、これによって原告に対し他の治療方法を選択することを含めて本件の補綴治療を受けるか否かについて判断し決断する機会を喪失させ、もって自己の身体に対する侵襲を内容とするような治療行為に際し患者として保証されるべき自己決定権ともいうべき人格的利益を違法に侵害したというべきである。これによって原告が精神的損害を被ったことは明らかであり、被告は原告に対しその損害を賠償すべき義務がある。

三  原告は、慰謝料のほか、当面の治療費及び後遺障害慰謝料等の賠償を求めているが、被告の診断及び治療方法自体が不相当なものでないことは原告も争わないところである。右説明義務違反によって原告に生じた損害は、前示のような人格的利益の侵害に起因するものであり、原告の主張する損害のうち慰謝料以外の損害は、右説明義務違反と相当因果関係を有するということはできない。

四  本件に表れた諸般の事情を勘案すると、原告の精神的損害を慰謝する慰謝料額は五〇万円とするのが相当である。

そして、本件における被告の説明義務違反の行為は不法行為をも構成するから、原告は、右行為と相当因果関係に立つ弁護士費用相当額を損害として請求し得るものというべきである。右弁護士費用相当額は、本件訴訟の内容、経過、認容額等諸般の事情を総合して一〇万円と認めるのが相当である。

よって、原告が被告に対し請求し得る損害賠償額は六〇万円となる。

第四  結論

以上の次第で、原告の請求は、六〇万円とこれに対する平成一一年一月一三日以降の民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その他は理由がないからこれを棄却することとして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官・岩田好二、裁判官・手嶋あさみ、裁判官・島田英一郎)

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